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令和2年2月21日より上陸再開!

世界遺産軍艦島について

軍艦島とは

軍艦島 その息遣いが蘇る 石炭全盛期、24時間3交代でフル操業の軍艦島。真夜中でも明るく不夜城と呼ばれていました。

軍艦島 その息遣いが蘇る 石炭全盛期、24時間3交代でフル操業の軍艦島。真夜中でも明るく不夜城と呼ばれていました。

軍艦島上陸クルーズで、今もなおその姿を見ることができます

軍艦島(端島・はしま)は長崎港から船で18.5kmの距離に浮かび、伊王島、高島、中之島の先に位置しております。
陸路では、長崎半島最南端の野母崎半島は、軍艦島が最も近く臨まれ、「軍艦」の形に見える位置となっています。
軍艦島の周囲海洋は、釣り人達の間では魚の宝庫ともいわれ、五島列島と並ぶ釣り人達の憧れの地でもあるのです。
付近の海域は潮の流れが荒く、僅かな風でも波の様相は一変する事もあり、慎重且つ安全な航行が必要です。
軍艦島の桟橋も、台風によってコンクリートごと根刮ぎ吹き飛ばされて流出してしまった経験を踏まえて数回の改良の後に「ドルフィン桟橋」が出来上がりました。

世界一の「人口密度」
軍艦島の人口密度は、最盛期には東京都の約18倍でした。

東京都 面積:2,188㎢ / 人口:9,683,802人
人口密度:4,425人/1㎢

ニューヨーク 面積:789㎢ / 人口:7,781,984人
人口密度:9,863人/1㎢

軍艦島 面積:0.063㎢ / 人口:5,267人
人口密度:83,603人/1㎢

※1960年当時

日本初の「高層RC造アパート」
国内最古の高層RC造(鉄筋コンクリート)アパート 「30号棟」

軍艦島上陸クルーズで、今もなおその姿を見ることができます。

日本一の「テレビ普及率」
軍艦島の鉱員の給料は高く、各家庭では当り前のようにテレビを所有していました。

テレビ普及率
全国:10%
軍艦島:ほぼ100%
※1958年当時

世界一長い「海底水道敷設」
安定した生活水を得るために、日本で初めての海底水道は2本敷設されました。

開通日:1957年10月11日
確保した生活用水:約1,000t / 1日
工事期間:1年5ヶ月

日本初の「屋上庭園」
緑の少ない軍艦島では、緑と接する機会を増やすため屋上庭園が設けられました。

木造5階建ての旧14号棟の屋上を先駆けとして、16~18号棟の全体の屋上は庭園化されました。

日本一の炭質を誇る「瀝青炭」
軍艦島はボタ(粗悪な炭)が少なく、日本一の品質の瀝青炭が採掘されました。

無煙炭:炭素含有量90%以上 / 発熱量:4,500~8,000(kcal/kg)
瀝青炭:炭素含有量83~90% / 発熱量:4,500~7,000(kcal/kg)
亜瀝青炭:炭素含有量78~83% / 発熱量:4,000~6,000(kcal/kg)
褐炭:炭素含有量70~78% / 発熱量:2,500~4,000(kcal/kg)

参考
一般財団法人石炭エネルギーセンター“石炭の種類”

日本一高い階層の「小中学校」
面積の狭い軍艦島では、日本一高層の小中学校が建築されました。

最盛期の小中学校の生徒数は1,169人でした。
※1962年当時

出展「高島町政三十年の歩み」

日本一高い位置にある「保育所」
子どもたちは、9階建ての65号棟の屋上にある保育所まで階段で通っていました。
なんと海抜26m。定員150人でした。
※1953年当時
日本初の「ドルフィン桟橋」
上陸の利便性と安全性を考慮して、ドルフィン桟橋が竣工されました。

初代:1954年に完成した日本初のドルフィン式稼動桟橋は波の高さ3mに耐える設計でした。ところが1956年8月の台風9号(当時記録された波の高さは7m)により流出してしまいます。

二代目:1958年に再建。波の高さ7mに対して安全性を考慮した結果、ドルフィンの主体を鉄骨とし、海底地盤を干潮面から9mまで掘り下げ基礎の強化が行なわれました。しかしまたしても1959年の台風14号により海中に没します。このときの波の高さは12~13mだと言われていまする。

三代目:1962年に再建。軍艦島では不可能だと思われていたドルフィン桟橋でしたが、軍艦島より15m対岸の岩盤を3m掘り下げ長さ25m、幅12m、海底からの高さ15mの人工島をつくることで耐久性の高いドルフィン桟橋が誕生しました。現在は軍艦島上陸クルーズ船の接岸場所として使われています。

日本一の運行年数「定期船」
定期船夕顔丸は、軍艦島の人々の足として日本で最も長く運行した。

夕顔丸の進水は明治20年。
その後、暫くしてから軍艦島への寄港を開始。
以後、昭和37年の航路廃止になるまで、一日3回往復していました。

自然の岩礁から人工島へ

1893年(明治26年)から1931年(昭和6年)まで、6次にわたる埋立工事の末、自然の岩礁から現在の半人工島の形になりました。
ほぼ現在の形に近い半人工の島になったのは明治後期。元々は大きな岩礁と周囲に点在する瀬からなる小さな島でした。

島内での移動手段は?
島内の道路はどこも狭く、移動は徒歩が中心。
荷物を運ぶ際には自転車やリヤカーを利用した。
大型車や普通車が通行できなかったので、島には小型のオート三輪トラック1台と自転車が数十台あるだけでした。
引越しの場合などには小まわりが利く自転車やリヤカーが活躍していました。
子どもたちは何して遊んでいたの?
晴れの日は野球や縄跳び。雨の日はボール投げやままごとなど。

学校グランド以外の狭い場所で野球などする場合は、1チームを3、4人とするなど独自のルールを作り楽しんでいました。

広い廊下は雨の日の遊び場には丁度良く、また車が通らない路上も格好の遊び場でした。

大人たちの楽しみについて
買い物やお酒を嗜むなど、現代と同じような娯楽が楽しめた。

男性は飲酒、パチンコ、麻雀、ビリヤード、囲碁・将棋、釣り。女性はショッピング、ファッション、井戸端会議などを楽しんでいました。また、その昔、成人男性の遊び場、遊郭まであったそうです。

買い物は不便じゃなかったの?
会社が経営する「購買会」と「個人商店」で、
生活必需品に困ることはありませんでした。

「購買会」は生活必需品が市価より安く、食品、衣料品、化粧品、タバコ、時計、生活雑貨など販売。端島銀座に面していた端島消費生活協同組合(生協)の売店では、健康器具の販売キャンペーンなども行なわれていました。

島外からもハサミ研ぎやコウモリ傘の修繕を手掛ける職人、金魚屋などが商売に来ていました。

もしも病気にかかってしまったら?
1957年(昭和32年)の大火後、病院が新たに建設。医療体制が整えられました。

医療体制は医師9名、看護師14名、薬剤師1名でした。

一般病床と結核や伝染病といった隔離病床をあわせて58床に増床。定期検診も実施されました。

火災が起きたときはどうしたの?
島の消防団と、状況に応じて高島消防団が定期船「夕顔丸」などで消火に駆けつけました。

高層鉄筋コンクリートのアパートと木造の建物が共存していたが、主に木造の建物が火元となり、火災が発生することがありました。

プールもお風呂も海水だった?
1957年の海底水道の開通後、飲料水用の真水の心配はなくなったが、
プールや鉱員専用浴場ではなおも海水が使われていました。
高い護岸に囲まれた軍艦島では、海での遊泳が禁止されていたため、島には海水を汲み上げたプールがありました。

鉱員専用浴場には、炭塵で真っ黒になった体のまま汚れを落とす海水の荒洗い浴槽と温水浴槽があり、上がり湯には真水が使われていました。
「端島手当」
出費の多い離島での生活費補填を目的に、労働組合が要求。交渉成立した。

家賃は約十円、水道代、光熱費はタダではあったが、1948年(昭和23年)に労働組合が要求し、人員編成1単位につき暫定額25円を獲得。翌年の協定締結後には出勤1日につき32円の端島手当がもらえました。独自の手当としては業界初でした。

生活費や必要経費以外にも使えるお金が多かったこともあり、軍艦島の人々は流行に敏感で装いも贅沢。週に1回、島内の美容院に通う女性たちもいたといいます。

「天川(あまかわ)」
凝固剤のこと。天川を用いた護岸も軍艦島の世界遺産登録の対象になっています。

天川は石灰と赤土を混ぜ合わせた凝固剤であり、凝固された石材を使用しつくられた護岸を「天川工法」と呼びます。

自然石と自然石の間を天川で固めて積み上げることにより、高さおよそ10m、幅は2mの護岸ができあがりました。

天川造りの護岸は一部は現在も残っており、軍艦島上陸クルーズではその姿を見ることができます。

写真補足説明文「災害で崩れた天川造りの護岸」

「大波見物」
海洋に浮かぶ島の宿命の台風。しかし島民は大波見物を楽しむ余裕すらありました。

台風時の大波見物は軍艦島の風物詩のひとつです。

女性たちも大波見物を行なうからか、台風を怖がるようではホンモノの島民になれなかったとも言われています。

「塩降町(しおふりまち)」
海が大荒れになると、護岸にぶつかった波が高層アパートを越えて潮びたしに。

高さ10mあまりの波が59~61号棟と65号棟の間の通りまで押し寄せ、その潮水は日照りによって塩の結晶になりました。

59~61号棟は台風や塩害を受けやすいとの理由から、護岸に対して直角に建てられ、防潮柵や窓のない壁面などには防潮対策が施されていました。

「山神祭(さんじんさい)」
会社が主催するビッグイベント。毎年4月3日頃に開催され、島全体を盛り上げました。

奉納相撲や奉納踊りなど、昭和館(映画館)ではアトラクションが催され、祭りの華である神輿は端島神社の神主の祈祷を受けた後、若い人たちに担がれて島中を練り歩きました。

前年の台風9号と12号と当年の大火災により意気消沈する島民たちを気づかい、1957年(昭和32年)だけは例年より1ヶ月遅れの5月に開催されました。

山神様を祀る端島神社の神殿の下には拝殿があったが、倒壊。現在は祠だけが残っています。

「運動会と文化祭」
会社主催の運動会が毎年11月3日に開かれ、文化祭は毎年11月に4日間開催されました。

運動会は11月3日に学校のグラウンドで開かれ、アパートの立地場所にしたがって決められた地区別と、職場別のチームによる対抗競技に島民は熱狂しました。

文化祭は11月に4日間、体育館と公民館で開かれ、絵画、生花、書などが展示されました。

「地獄段」
屋外の主要通路階段のひとつ。57号棟の間から端島神社へ通じている。

長くて複雑な階段は、途中で息切れすることからこの名称がついました。端島中学校のマラソンコースにもなっていました。

もうひとつの主要通路階段は57号棟の広場に通じる「五十段」。

「昭和館」
島唯一の映画館。いつも立ち見が出るほどの大人気ぶりでした。

1927年(昭和2年)に完成。建物の外観をレンガで装飾するなど、当時としてはモダンな造りでした。

毎月30本以上の作品が上映されるも、映画の人気にも陰りが差してきた頃の昭和40年代はじめに閉館してしまう。それ以降は集会場や卓球場として使用されました。

「端島銀座」
青空市場が開き、屋根付きの仮設店舗が並んだりする。島いちばんの目抜き通り。

青空市場での買い物を楽しむだけではなく、井戸端会議などもよく繰り広げられていました。多くの老若男女が足しげく行き交った島のメインストリートです。

「カンバセン」
定期船の接岸を可能にする伝馬船(はしけ)の愛称。

ドルフィン桟橋ができるまでの間、定期船と桟橋の間を結ぶ手段。

約20人の客を乗せ櫓を漕ぎ、命を預かる3人の船頭は人びとの尊敬の的でした。

大しけの際の上陸も可能にしたが、強風や雨の日の上陸は厳しく、特に女性にとって強風の日はスカートが風にあおられめくれあがるため、「恥ずかしい」上陸日だったそうです。

「棹取」「先山」「後山」
トロッコ列車を操作する人は棹取、採炭の指導員を先山、メンバーを後山と呼んだ。

「棹取」は動作が機敏で頭の回転の速い、若者労働者の仕事。列車をつなぐピンの装脱を行なうことから、別名「ピン切り」とも言われました。

基本的には一作業箇所に1人の先山のもとに2、3人、あるいは数人の後山が配置。先山の指示によって作業が遂行されました。

特に模範とされるような円熟した技量をもっている「先山」を「大先山(おおさきやま)」とも呼びます。